4.04.2011

こころのケア



わたしの素敵な仲間、ナースのmadokaさんがシェアしてくれたお話です。




真夏のオーストラリアでholidayを終えた私に待っていたのは、想像を絶する時間でした。

震災の前日、大きな揺れがあって、夜勤でリーダーを取っていた私は、ベビーやスタッフの安否を確認し、その時に「もうすぐ大震災が来るかもね」と話していたのが、現実になるとは思いもしませんでした。
夜勤明けで今まで家を空けていた分、たっぷりと食料を買って帰り、起きると次の日の朝でした。

旅行の分の洗濯をしたり、料理を作ったりして、まだholiday気分で、また貰えた連休をゆっくり過ごそうと思っていました。

そして午後に強い揺れを感じ、本が落ちてきたりして、布団にもぐっていました。3時間くらいして、ようやく余震が落ち着いてきたので、送別会に行こうと準備を始めました。

中止の連絡を貰い、電車が止まっていることを知り、夜勤を手伝いに行こうと連絡しました。そして、電車通勤の日勤者に、家を借せたらとmailをしたりしました。都内でも帰宅難民の人が出ていることを知り、自分が温かな布団で眠れることに申し訳なさを感じながら、夜勤に備えて、早々と眠りに着きました。
連絡を貰ったのが明け方で、日勤者が夜勤をしているという事実を知り、昨夜の帰宅難民や、初動斑で出動した友達のことを考えると、本当に自分は何をしているんだろうと居たたまれ無い気持ちになって、涙が出てきました。

何か出来ないか考えた末、コンビニにも食料がないと聞いたので、たくさん炊いてあったご飯でおにぎりやゆで卵を作り、病院に持って行きました。

それから眠れなかったという友達のところに行って、その後すぐに救護班としての出動要請があり、準備のために病院へ戻りました。

「あなたが一番最初に手伝ってくれるという連絡をくれたから」というのが、要請を貰えた理由でした。もうすぐ辞める自分に、声がかかるとは思ってもいなかったので、そんな心遣いに感謝でいっぱいでした。


☆☆


医療資機材や救護服などの準備をし、院長や事務部長から、出動命令を受け、自宅待機となりました。始めは夕方に出動ということでしたが、早ければ夕方、遅ければ明日未明にと待機指示に変わりました。

急いで家事を済ませ、荷造りをして、シャワーを浴びて、出来るだけ休もうと布団に入りました。そして早めに夕飯を済ませました。

結局夜遅くに要請が解除され、次の日は来れない人の代わりに日勤をしました。
しばらく要請はないとのことでしたが、突然連絡が入り、急いで荷物を取りに帰りました。
出動直前に、助産師の要請としてメンバー交代をすることになり、私は残ることになりました。
準備からこれまで「このメンバーで行けたら最高だね」とお互い結束力を高めていたので、現地に行けないことより、このメンバーで行けないことがとても残念でした。
それからまた仕事に戻って働いていましたが、皆の優しさを強く感じた、大事な一日になりました。
そして待機指示に流されず、マイペースでニュートラルに、その日その日を生きて行こうと決めました。

次の日も仕事に行って、震災でバタバタのNICUやスタッフのどうにか力になれたらと思いました。電車通勤で来れないスタッフの代わりに、1人でたくさんのベビーを見たりしていました。

勤務の後に、また新たな要請を貰いました。こんな私に、3度も要請を頂いて、本当に申し訳ない気持ちでしたが、「あなたに行ってほしい」と強く言われたので「私に出来る事があれば」とお答えしました。
その日は、震災に伴う調整で幹部の人々も混乱の最中で、色々とお手伝いをして帰りましたが、そんな中でも皆が一つになっていることを感じて、とても嬉しい一日でした。


☆☆☆


次の日は夜勤でしたが、唯一、連絡を貰わない日だったので、停電の直前までゆっくり寝て、急いでお弁当を作り、出かけました。

夜勤明けでまた連絡を貰い、病院に行って派遣前ブリーフィングを行った後に、やっと本部から連絡が来て、出発日が決まりました。

また次の日も連絡を貰い、病院に行って、最終調整と、ワクチン摂取、携帯品の準備などを行いました。


私は、東京都支部の代表で、病院からも東京からも、1人で出動する要請だったので、うまく連携が取れず、日時や持ち物、派遣内容もあまりわからないまま、最後の最後で都支部の職員が迎えに来てくれることになり、出動となりました。

時間も変わったので、夜勤明けのスタッフや職員の皆が私1人のために見送ってくれ、とても有難い気持ちになりました。

そして私のために、都支部から車を出して頂き、申し訳なかったですが、とても良い方で救われました。様々な物資を乗せて、向こうで足りないものを途中で買ったりして、石巻日赤へ向かいました。
緊急車両だったので、高速を使い、途中のSAでも日赤だとわかると、「片付けておくから行ってらっしゃい。お願いします!」と声をかけられ、皆の優しさを頂きながら、現地へ向かいました。そして自衛隊や消防隊、他の日赤の方しかおらず、皆で力を合わせてこれから活動するんだと、嬉しい気持ちになりました。

あっという間に仙台へ着いて、高速が使えなくなり、一般道で行くことになりました。

高速を下りてからは、本当に被災地であることを目の当たりにしました。崩れた建物やそこら中に転がる車で、気をつけて運転していかないと、すぐにぶつかりそうでした。そんな道を通って行ったので、だいぶ時間がかかって現地に着きました。


☆☆☆☆


石巻日赤に着くと、そのまま災害対策本部に直行し、こころのケアセンターで既に申し送りが始まっていました。

それから各病院から集まった、第2斑となるこころのケアチームのメンバーと自己紹介をし、皆良さそうな方で安心しました。

その後リーダーmtgを待って、夕食を食べながらチームのmtgをしました。
1斑で立てて頂いたテントで、本当に申し訳ないくらい、食料もあって、皆で肩を寄せ合ってご飯を食べました。
私たちのメンバーの他に、石巻の心理士さん、東松島市の保健師さんなども一緒で、こんなに様々な方と活動出来る事に喜びを感じました。
そして立ち上げのために日赤から来ていたNZ帰りの有名な心理士の先生方が、本当に偉大な方々で「1に無事に帰る 2に楽しんで 3 4はなくて 5に出来れば仕事をするくらいの気持ちで、決して無理をしないでくださいね」と励まして下さいました。私にとっても人間的に、本当に尊敬できる、大きな出会いとなりました。

その日の夜から黒エリア(遺体安置所)の当直となり、ご家族が来られると、呼ばれて対応することになりました。

充実しすぎた1日で、私がたまたまこころのケア要員として、この大事なチームに所属した意味などを考えると、溢れる感謝と、大きすぎるその意味合いに、あまり寝つけませんでした。


☆☆☆☆☆


石巻では、この病院しか機能しておらず、医療継続のために、まずはスタッフのケアを一番に考えて欲しいという要請があり、リフレッシュルームで足浴やマッサージを行ったり、病棟を回って、被災後の症状のチェックリストとリーフレットを配り、心配な方は連絡を貰い、話を聞いて、心理士や精神科医へ繋げました。リフレッシュルームの広報も行い、利用者も急激に増え、家や家族をなくしながらも、頑張り続けているスタッフが、涙を流せる大事な場所になりました。

保健師さんが回った中で、被災が大きかった地域や、こころのケアの必要性が高い地域の避難所を巡回し、ゆっくりお話を聞きました。
皆口々に「命があるだけ幸せです」とおっしゃり、助け合いながら生活している姿に、こちらが励まされる日々でした。

また車内泊の方々のために、エコノミー症候群予防のリーフレットを作り、救護班の巡回診療にも持って行って貰えるようにしました。

後半になると、様々な大学から精神科医が加わり、小さな力が大きな力に変わりました。また東松島市だけだった避難所巡回も、石巻市の保健師さんも加わるようになり、活動も拡大していきました。

また、管理職を通したスタッフの相談や地域の医療者からの相談も増え、長期化する中で、事態も深刻化していることを実感しました。
2次災害で命を落とす方も増えてきており、これからは予防が大事だなと思いました。
また頑張って探した命が、亡くなっていることを知った時のショックも想像を絶するものだろうなと思いました。

とても幅が広くて、重要で、医療者にとっても、被災者にとってもニーズが高かったこの役割を、いつも互いに励ましあい、支えてくれたのは、かけがえのない5人のメンバーでした。
そして、被災からずっと頑張り続けている現地の心理士さんと保健師さんでした。彼らの人間性の高さには、本当に脱帽で、出逢えて良かった方ばかりに囲まれて、人生にとって本当に貴重な時間になりました。

皆さんから貰えた愛を、現地に届けてくるつもりでいましたが、結局、貰えたものが多すぎて、貰ってばかりで、これからどうこの感謝を繋げていけば良いのか、ゆっくり考えながら、それが被災者の方へのエールにつながる様に、自分に出来ること、見つけて行きたいと思います。

帰って被災者の方の記事などを読んで、出逢えた方それぞれに抱えきれないstoryがあるんだろうなと思うと、その渦中にいた自分が信じられない気持ちもありますが、本当に、悲しみを優しさに変えて、生きていければと願うばかりです。

今日も頑張っているあなたに、一日でも早く、温かな陽射しが降り注ぎますように。
出逢えた感謝をこめて。 

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